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國譯法句經(立花俊道譯)第 26 品 · 國譯

Dhammapada · 立花俊道

完整原文 · 文语国译Wikisource 國譯法句經 · 1918
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Dhammapada

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国译品次第 26 品 · 國譯
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383 努力(どりよく)して流(ながれ)を截(た)ち諸欲(しよよく)を去(さ)れ、(1)婆羅門(ばらもん)、諸行(しよぎやう)の滅(めつ)を證(さと)れば、婆羅門(ばらもん)、汝(なんぢ)は(2)無爲(むゐ)〔の法(ほふ)〕を知(し)らん。384 婆羅門(ばらもん)、若(も)し〔止觀(しくわん)の〕二法(ほふ)に於(おい)て、彼岸(ひがん)に達(たつ)する時(とき)は、此(こ)の智者(ちしや)の愛結(あいけつ)は總(すべ)て盡(つ)くるに至(いた)る。385 人(ひと)に(3)彼岸(ひがん)なく此岸(しがん)なく、彼此兩岸(ひしりやうがん)共(とも)になし、怖畏(ふゐ)を離(はな)れ、愛結(あいけつ)を除(のぞ)きたる、斯(かく)の如(ごと)きを我(われ)は婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。

386 禪思(ぜんし)ありて、離垢(りく)を求(もと)め、所作(しよさ)已(すで)に辨(べん)じて、漏(ろ)あるなく、最上利(さいじやうり)に達(たつ)せるもの、我(われ)はこれを婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。387 日(ひ)は晝(ひる)照(て)り、月(つき)は夜(よる)輝(かがや)く、武服(ぶふく)せる刹利種(せつなしゆ)は光(ひか)り、禪思(ぜんし)ある婆羅門(ばらもん)は光(ひか)る、されど佛(ほとけ)は其(そ)の威光(ゐくわう)を以(もつ)て總(すべ)て晝夜(ちうや)に光(ひか)る。388 惡業(あくごふ)を除(のぞ)けるは婆羅門(ばらもん)、行(ぎやう)を寂(しづか)にせるは沙門(しやもん)と稱(しよう)せらる、己(おのれ)の(5)垢穢(くゑ)を棄(す)てたるによりて、彼(かれ)は出家者(しゆつけしや)と稱(しよう)せらる。

389 婆羅門(ばらもん)を毆(う)つ勿(なか)れ、婆羅門(ばらもん)は〔毆(う)たるるとも〕怒(いかり)を發(はな)つ勿(なか)れ、禍(わざはひ)あれ、婆羅門(ばらもん)を毆(う)つものに。更(さら)に禍(わざはひ)あれ、〔毆(う)たれて〕怒(いか)るものに。390 婆羅門(ばらもん)若(も)し心(こころ)を其(そ)の愛好(あいかう)〔する所(ところ)〕より遠(とほ)ざくれば、之(これ)彼(かれ)に小(せう)ならざる利益(りやく)あり、〔他(た)を〕害(がい)する意(こころ)の消(き)ゆる每(ごと)に苦惱(くなう)亦(また)隨(したが)つて滅(めつ)す。391 人(ひと)の身(み)にも、語(ことば)にも、意(こころ)にも、惡作(あくさ)なく、三處(しよ)に攝(せつ)する所(ところ)ある、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。

392 〔人(ひと)若(も)し師(し)〕より〔聞(き)きて〕佛(ほとけ)の說(と)き給(たま)ひし法(ほふ)を曉(さと)らば、此(こ)〔の師(し)〕を敬(うやま)ふこと、婆羅門(ばらもん)の火祠(くわし)を〔敬(うやま)ふ〕が如(ごと)くせよ。393 婆羅門(ばらもん)は結鬘(けつまん)と姓(しやう)と生(しやう)とに依(よ)るにあらず、人(ひと)に諦理(たいり)と法(ほふ)とあらば彼(かれ)は淸白(しやうびやく)なり、又婆羅門(ばらもん)なり。394 愚者(ぐしや)よ、結鬘(けつまん)は、汝(なんぢ)に何(なん)〔の用(よう)〕かある、皮衣(ひえ)は汝(なんぢ)に何(なん)〔の用(よう)〕かある、汝(なんぢ)は內(うち)に愛著(あいぢやく)を〔抱(いだ)きて〕、唯(ただ)外(ほか)を淨(きよ)うす。

395 弊衣(へいえ)を著(き)たる人(ひと)の瘦(や)せて、脈管(みやうくわん)露(あら)はるるに至(いた)り、獨(ひと)り林閒(りんかん)に〔入(い)りて〕禪思(ぜんし)せるもの、之(これ)を我(われ)は婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。396 (6)我(われ)は(7)〔婆羅門女(ばらもんによ)の〕胎(たい)より出(い)で、〔婆羅門(ばらもん)の〕母(はは)より生(うま)れたるの故(ゆゑ)を以(もつ)て婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶことなし、彼(かれ)若(も)し我有(がう)あらば、彼(かれ)は〔我(われ)を〕(8)爾(ボー)と呼(よ)ぶの徒(と)なり、我有(がう)なく取著(しゆぢやく)なきもの、之(これ)を我(われ)は婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。397 所有(あら)ゆる愛結(あいけつ)を斷(た)ち、怖(おそ)るる所(ところ)なく、著(ぢやく)を超(こ)え、繫(け)を離(はな)れたるもの、此(こ)の人(ひと)を我(われ)は婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。

398 (9)紐(ひも)と緖(くだ)と索(なは)とを、之(これ)に屬(ぞく)するものと共(とも)に、倂(あは)せ斷(た)ち、梁木(はりき)を摧(くだ)きたる智者(ちしや)、われは此(こ)の人(ひと)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。399 惡罵(あくめ)も、打擲(ちやうちやく)も、監禁(かんきん)も怒(いか)ることなくして默受(もくじゆ)し、堪忍力(かんにんりき)ありて、心(こころ)猛(たけ)き人(ひと)、われは斯(かく)の如(ごと)き人(ひと)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。400 忿怒(ふんぬ)なく、行(ぎやう)あり、戒(かい)あり、欲(よく)を離(はな)れ、自調(じてう)して、最後身(さいごしん)に達(たつ)せるもの、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。

401 荷葉(かえふ)の上(うへ)なる水(みず)の如(ごと)く、錐(きり)の頭(さき)なる罌粟(けし)の如(ごと)く、諸欲(しよよく)に染(ぜん)せざるもの、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と名(なづ)く。402 己(おのれ)の苦惱(くなう)の此處(ここ)に滅(ほろ)ぶるを知(し)り、重擔(おもに)を卸(おろ)し、繫縛(けばく)を離(はな)れたるもの、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と稱(しよう)す。403 深智(しんち)あり、賢才(けんさい)ありて、道非道(だうひだう)を辨(わきま)へ、最上利(さいじやうり)に到達(たうたつ)せるもの、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。

404 在家人(ざいけにん)にも、出家人(しゅつけにん)にも、其(そ)の閒(あひだ)に混(まじは)らず、家(いへ)なくして遊行(ゆぎやう)し、欲(よく)寡(すくな)きもの、われは此(こ)の人(ひと)を婆羅門(ばらもん)と云(い)ふ。405 弱(よわ)きも强(つよ)きも、有情(うじやう)に對(たい)して刀杖(たうじやう)を加(くは)えず、之(これ)を害(そこな)ふことなく、將(は)た殺(ころ)さしむることなき、此(こ)の人(ひと)を我(われ)は婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。406 敵意(てきい)ある人(ひと)の閒(あひだ)にありて敵意(てきい)なく、暴者(ばうしや)の中(うち)にありて心(こころ)溫(あたた)かに、取著(しゆぢやく)ある人(ひと)の中(うち)にありて取著(しゆぢやく)なき、之(これ)を我(われ)は婆羅門(ばらもん)と名(なづ)く。

407 人(ひと)の貪(とん)と、瞋(しん)と、慢(まん)と、覆(ふく)と共(とも)に落(お)つること、錐頭(きりさき)の罌粟(けし)の如(ごと)くなる、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と名(なづ)く。408 麤(そ)ならず、意義(いぎ)を含(ふく)みて、眞(まこと)なる語(ことば)を吐(は)き、之(これ)によりて他(た)を怒(いか)らしむることなき、われは之(これ)を婆羅門(ばらもん)と稱(しよう)す。409 比(こ)の世(よ)にありて、長(なが)きも短(みじか)きも、小(せう)なるも大(だい)なるも、善(よ)きも惡(あし)きも、與(あた)へられざるを取(と)ることなき、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と名(なづ)く。

410 此(こ)の世(よ)にも彼(か)の世(よ)にも、欲望(よくもう)あるなく、意樂(いげう)なく、繫縛(けばく)を離(はな)れたる、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と云ふ。411 人(ひと)に依處(えよ)なく、智慧(ちゑ)ありて、疑惑(ぎわく)なく、不死(ふし)の極處(ごくしよ)に到(いた)れる、此(こ)の人(ひと)を我(われ)は婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。412 此處(ここ)に福業(ふくごふ)も、罪業(ざいごふ)も共(とも)に〔脫(のが)れて〕、著(ぢやく)を伏(ぶく)し、憂(うれひ)なく、染(ぜん)なく、淸淨(しやうじやう)なるもの、此(こ)の人(ひと)を我(われ)は婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。

413 曇(くも)りなき月(つき)の如(ごと)く〔心(こころ)〕淸(きよ)く、澄(す)み、濁(にご)りなく、歡樂(くわんらく)の心(こころ)盡(つ)きたる人(ひと)、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と稱(しよう)す。414 此(こ)の泥途(でいと)・難路(なんろ)・輪廻(りんね)・愚癡(ぐち)を超(こ)え、渡(わた)りて彼岸(ひがん)に到(いた)り、禪思(ぜんし)ありて、欲(よく)なく、疑(うたがひ)なく、執(しふ)なくして靜穩(じやうをん)に歸(き)せる、我(われ)は此(こ)〔の人(ひと)〕を呼(よ)んで婆羅門(ばらもん)と云(い)ふ。415 此處(ここ)に諸欲(しよよく)を棄(す)て、家(いへ)を離(はな)れて遊行(ゆぎやう)し、欲有(よくう)を滅(めつ)したる人(ひと)、之(これ)を我(われ)は婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。

416 此處(ここ)に愛著(あいぢやく)を棄(す)て、家(いへ)を離(はな)れて遊行(ゆぎやう)し、愛有(あいう)を滅(めつ)したる人(ひと)、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。417 人界(にんがい)の縛(ばく)を棄(す)て、天界(てんかい)の縛(ばく)を超(こ)えたり、所有(あら)ゆる繫縛(けばく)を離(はな)れたる人(ひと)、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と云(い)ふ。418 樂(らく)と非樂(ひらく)とを棄(す)て、淸涼(しやうりやう)に歸(き)して、有質(うぜつ)なく、所有(あら)ゆる世閒(せけん)に打(う)ち勝(か)ちたる勇士(ゆうし)、我(われ)は此(こ)の人(ひと)を婆羅門(ばらもん)と云(い)ふ。

419 總(すべ)て有情(うじやう)の死(し)と生(しやう)とを知(し)り、執着(しふぢやく)の念(ねん)なき善趣(ぜんしゆ)の智者(ちしや)、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。420 諸天(しよてん)も、乾闥婆(けんたつば)も、人閒(にんげん)も、其(そ)の行(ゆ)く道(みち)を窺(うかが)ひ知(し)るなし、此(こ)の漏盡(ろじん)の阿羅漢(あらかん)、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。421 彼(か)の過去(くわこ)にも、未來(みらい)にも、將(ま)た中閒(ちうげん)にも、己(おのれ)の有(う)とすべきものなし、我有(がう)なく取著(しゆぢやく)なき、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。

422 最雄(さいゆう)、最勝(さいしよう)の人(ひと)、勇士(ゆうし)、大仙(だいせん)、勝者(しようしや)、無欲(むよく)にして學(がく)を訖(をは)りたる智者(ちしや)、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。423 宿世(しゆくせ)を知(し)り天界(てんかい)と惡趣(あくしゆ)とを見(み)、更(さら)に生(しやう)の滿盡(まんじん)に到(いた)り、智(ち)の極(きよく)に達(たつ)したる牟尼(むに)にして、總(すべ)て果(はた)すべきを果(はた)したる人(ひと)、我(われ)は之(これ)を婆羅門(ばらもん)と呼(よ)ぶ。註 (1) 此の偈以下、偈每に「婆羅門」の語を用ふ、是れ印度四姓中の婆羅門を指すにあらずして、煩惱を滅し惡業を除きたる人の義に用ひたるなり。 (2) 涅槃の謂なり。 (3) 法句經註解書には、彼岸此岸、彼此岸を、內の六入、外の六入、內外の六入なりと解し、アンデルゼンは、來生、此生、及び全一生なりと註し、而も疑を存せり。 (4) 阿羅漢果を云ふ。 (5) 愛欲等の諸煩惱。 (6) 以下四二三偈まで諸經要集六二〇-六四七偈參照。 (7) 生のために、母のために婆羅門と呼ぶことなし。 (8) 所謂四姓中の婆羅門族に生れたるものは世尊を呼ぶに bho(ボー) (爾又は友)の語を以てせり、故に彼を稱して bhovâdi(ボーヷーヂ) (佛を呼ぶに爾の語を以てするもの)と名けたり。 (9) 紐は忿に譬へ、緖は愛に、索は六十二見に、梁木は之を無明に譬ふ、而して智者とは四諦の理を知りたる人の謂なり。

國譯法句經終

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书目关系边界:國譯法句經/巴利法句:立花俊道 1918 年《國譯法句經》是巴利《法句》423 偈(雙雙品=Yamakavagga)的文語國譯/訓讀體日文,不是漢譯 T210 的訓讀。掛接既有作品 gbcr:work:dhammapada-pali,不另建作品,也不把國譯等同佛陀逐字親說。 法句文本家族/T210 平行:漢譯 T210(gbcr:work:dharmapada-t0210,39 品)與巴利 Dhp 同屬 gbcr:text-family:dhammapada。本表達記錄該家族平行,不與 T210 逐偈對齊,也不合併或新建作品。

归属边界:1918 年公有领域文语国译;挂接已持有巴利法句,不另建作品,也不把国译等同佛陀逐字亲说。署名 Wikisource、1918 年國譯大藏經與譯者立花俊道。汉译 T210 只记家族平行,不逐偈对齐。