漢傳佛教 · 寶積部

勝鬘師子吼一乗大方便方広経(現代日本語訳)第 5 章 · SAT日譯

勝鬘師子吼一乘大方便方廣經 · 松本知己 · 真野新也 · 大久保良峻 · SAT大蔵経テキストデータベース研究会

完整原文 · 现代日译SAT現代日本語訳 T0353
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勝鬘師子吼一乘大方便方廣經

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松本知己 · 真野新也 · 大久保良峻 · SAT大蔵経テキストデータベース研究会
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日文
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日译章节第 5 章 · SAT日譯
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ブッダは王妃シュリーマーラーにおっしゃいました。さあ、すべてのブッダが説いた真実の法を受け入れることについて、さらに詳しく説明してごらんなさい。王妃シュリーマーラーはブッダに申し上げました。

承知いたしました。世尊よ。 お勧めに従い、説明いたします。それから、彼女は次のように申し上げました。

世尊よ。真実の法を受け入れることは、大乗[を受け入れること]です。なぜでしょうか。

大乗は、世俗的な世界における善行と、世俗を超えた声聞や縁覚の境地における善行、つまり、すべての善行を生み出すからです。世尊よ。八つの大いなる川がアナバタプタ湖(阿耨大池)に源を発するように、そのように世俗的な世界における善行と、世俗を超えた声聞や縁覚の境地における善行、 つまり、すべての善行は、大乗から現れ出るのです。

世尊よ。また、全ての種子は大地をよりどころとして[のみ]生長することができるように、そのように、世俗的な世界における善行と、 世俗を超えた声聞や縁覚の境地における善行、つまり、すべての善行は、大乗をよりどころとして[のみ]拡大することができるのです。それゆえに、世尊よ。

大乗に安住し、大乗を受け入れること、これは二乗に安住し、世俗的な世界における善行と、世俗を超えた二乗(声聞と縁覚)の境地における善行、 つまり、すべての善行を受け入れることと同義なのです。世尊が説かれる六つのよりどころとはなんでしょうか。それらは、

真実の法の存続、真実の法の滅亡、波羅提木叉(戒の根本条文)、

比尼(律。 教団の規則)、出家、戒を受けること(出家修行者が持つべき戒を受けること)

です。世尊は大乗のためにこれら6つのよりどころをお説きになっています。なぜでしょうか。

真実の法の存続は、大乗のために説かれるからです。大乗の存続は、真実の法の存続です。真実の法の滅亡も、大乗のために説かれます。

大乗の滅亡は、真実の法の滅亡です。波羅提木叉と比尼は、名称は違いますが、その意義は同じです。比尼は、大乗の修行者が学習します。

なぜでしょうか。修行者が出家して戒を受けるのは、ブッダをよりどころとするからです。それゆえに、大乗での行為のあり方、すなわち戒[の完成]を定めるのは、出家と受戒について定める比尼なのです。

したがって、阿羅漢(小乗仏教の出家修行者で最高位に達した者)には、[大乗と同じ意味での]出家や受戒はありません。なぜでしょうか。阿羅漢が出家して受戒するのは、如来をよりどころとするからです。

ブッダに帰依することを求める阿羅漢は、恐怖を抱いています。なぜでしょうか。阿羅漢は、全ての事象の原因となる力に恐怖しながら過ごしています。

それは、あたかも剣を手にした人がやって来て、今にも彼に切りつけようとしているような状態です。それゆえに、阿羅漢には究極の幸福はありません。なぜでしょうか。

世尊よ。自らが[最終的な]よりどころである者は、よりどころを探し求めることがありません。よりどころがなく、あれやこれやに恐れている者は、恐怖ゆえによりどころを探し求めます。

そのように、恐れを抱いている阿羅漢は、恐怖ゆえに如来に帰依するのです。世尊よ。 阿羅漢と縁覚は恐怖しています。阿羅漢と縁覚には、生と死の繰り返し(輪廻)の原因が残っているため、生を受け続けます。

彼らは自らを清浄にする実践をいまだ成し遂げることはなく、不浄な部分が残っています。彼らの修行が究極的なものではないため、彼らには、なすべきことがまだあります。彼らは[最終的な段階に]達していないので、断ずべき煩悩がまだあります。

それらが断ぜられていないので、涅槃の境地からはほど遠いのです。なぜでしょうか。如来・応供・正遍知だけが、すべての功徳をそなえた最終的な涅槃を得るからです。

阿羅漢と縁覚とには、すべての功徳はそなわっていません。彼らが涅槃を得たといわれることがありますが、これはブッダの巧みな手立てによるもの[に過ぎません]。如来のみが最終的な涅槃を得、はかりしれない功徳をそなえているので、阿羅漢と縁覚の涅槃は、思慮しうる功徳をそなえているにすぎません。

彼らが涅槃を得たといわれることがありますが、これはブッダの巧みな手立てによるものです。如来のみが最終的な涅槃を得、断滅すべき過ちはすべて断滅し、このうえなく清浄です。阿羅漢と縁覚にはまだ過失が残り、完全に清浄ではありません。

彼らが涅槃を得たといわれることがありますが、これはブッダの巧みな手立てによるもの[に過ぎません]。如来のみが最終的な涅槃を得、すべての生き物から尊崇され、阿羅漢、縁覚及び菩薩の境地を超越しています。それゆえに、阿羅漢と縁覚は涅槃の境地からはほど遠いのです。

阿羅漢と縁覚が解脱を求めて瞑想し、四つの智慧を持ち、究極的に安息な境地を得た、といわれることがありますが、これもまた如来の巧みな手立てであり、不完全な意義として説示されます。なぜでしょうか。二種の死があるからです。

二種の死とはなんでしょうか。通常の死(分段死、肉体を持つ者の死)と、不可思議な、変化する性質を持つ死(不思議変易死、心によって作られた身体を持つ者の死)です。通常の死は、虚偽の世界に生きる者の死です。

不可思議な、変化する性質を持つ死は、阿羅漢や縁覚、大いなる力を有する菩薩など、心によって作られた身体を持つ者が、最高の悟りの境地に達するまで受けることになる死です。二種の死のうち、阿羅漢と縁覚が、『すでに生は尽きた』といわれる知識を得るのは、通常の死についてです。まだ残りのある不完全な涅槃を得たことで、『聖なる修行は完全に成し遂げられた』といわれます。

過失や煩悩を断滅したことから、『実践は完成した』といわれます。その実践とは、一般の人、天、そして七種の修行者(小乗仏教の最高の位に達していない修行者)には行うことができないものです。阿羅漢と縁覚は、煩悩を断滅すると再び生を受けることがないので、『再び生を受けない』といわれます。

これは、彼らがすべての煩悩を断滅し、すべての生を尽くしたというわけではありません。なぜでしょうか。阿羅漢と縁覚には断滅することのできない煩悩が存在するからです。

二種の煩悩が存在します。二種とはなんでしょうか。潜在的な煩悩(住地煩悩)と、顕在的な煩悩(起煩悩)です。

潜在的な煩悩には四種あります。それらは、視覚に関する欲望の領域(見一処住地)、

感覚的な快楽への欲望の領域(欲愛住地)、物質への欲望の領域(色愛住地)、存在への欲望の領域(有愛住地)、

です。これら四つ[の潜在的な煩悩]によって、すべての顕在的な煩悩が存在します。顕在的、とは、瞬間的に顕在化するということであり、瞬間的な心に対応して顕在化します。

世尊よ。心は、始まりを知ることができないほど遠い過去(無始)から存在する根源的な無知(無明)とは[同じようには]対応しません。世尊よ。

これら四つの潜在的な煩悩の力は、すべての顕在的な煩悩の基礎となるものですが、無明の領域[の力]に対すると、計算、比較、計量という点でも、類似という点でも、まったく比べものになりません。世尊よ。無明の領域はなんと強大な力を持っているのでしょう。

無明の領域の力は、第四の存在への欲望の領域に代表される他の領域よりもはるかに強大です。無明の領域の力は、たとえば悪魔波旬が、容姿、力、長寿、従者などにおいて、他化自在天よりも優れ、また強大であるようなものです。無明の領域の力は、他の四つの領域よりもはるかに強大です。

これは、ガンジス川の砂よりも多い顕在的な煩悩の基礎となり、四種の煩悩を存在させ続けます。阿羅漢と縁覚の智慧は、それを断滅することができません。そうです。

世尊よ。無明の領域は極めて強大です。また世尊よ。

生存への執着を間接的な原因として、汚れた行いを直接的な原因として、三種の存在が生じます。それと同じように、世尊よ。阿羅漢と縁覚と、大いなる力を持つ菩薩の、三種の心によって生ずる身体(三種意生身)は、無明の領域を間接的な原因として、清浄な行為を直接的な原因として生じます。

これら三つの段階(阿羅漢、縁覚、及び菩薩)において、三種の心によって作られた身体と清浄な行為は、潜在的な無明の領域を原因として生じます。無明の領域は、すべての事象の原因となり、原因とならないということはありません。したがって、三種の心によって生じた身体と清浄な行為は、無明の領域を原因とするのです。

世尊よ。このように、第四の存在への欲望の領域によって代表される他の領域は、作用において無明の領域と同等ではありません。無明の領域は他の四つの領域とは異なり、ブッダの位で、ブッダの悟りの智慧によって断滅されるのです。

なぜでしょうか。阿羅漢と縁覚は、四つの領域を断滅しますが、彼らは自在な力を得ていず、悟りも完成していないために、彼らの清浄というものは、不完全であるからです。『不完全である彼らの清浄』とは、無明の領域によるのです。

世尊よ。阿羅漢、縁覚、及び最後の身体を有する菩薩は、無明の領域がもたらす障害によって多くの事象が存在することを知らず、気づくこともないのです。彼らは気がついていないので、究極的に断滅すべきものを断滅することができません。

彼らは[すべての煩悩を]断滅していないので、彼らの解脱は『まだ残りのある解脱』であり、『すべての過ちからの解脱』ではありません。彼らには『まだ[浄化を行うべき]残りのある清浄』はありますが、完全な清浄はありません。彼らは『まだ[達成すべき]残りのある功徳を実現』しましたが、それは完全な功徳ではありません。

彼らは、まだ残りのある解脱、まだ残りのある清浄、まだ残りのある功徳を実現するので、阿羅漢、縁覚、及び菩薩は、まだ残りのある苦を知り、 まだ残りのある苦の滅を達成し、まだ残りのある修行法の実践を行っているのです。これが、『部分的な涅槃を得ること』です。部分的な涅槃を得る者達は、『涅槃の境地に向かい』ます。

もしすべての苦を知り、すべての苦の原因を断滅し、すべて[の苦]を完全に消滅させ、すべての修行法を実践すれば、 無常で退廃的な、また無常で苦しみに満ちたこの世俗の世界で、常住の涅槃を得るでしょう。守護する者のない世俗の世界で、よりどころのない世俗の世界で、守護者となり、よりどころとなるでしょう。なぜでしょうか。

事象に優劣がないことのゆえに、涅槃の獲得があるからです。[世尊よ。すべての事象が平等であることによって、涅槃の達成があるのです。

知識の平等のゆえに涅槃を得るのです。解脱の平等のゆえに涅槃を得るのです。清浄の平等のゆえに涅槃を得るのです。

涅槃には一つの等しい味わいがあり、それが解脱の味わいなのです。世尊よ。もし無明の領域が究極的に断滅されなかったら、一つの等しい味わい、すなわち明らかな解脱の味わいを得ることはありません。

なぜでしょうか。もし無明の領域が究極的に断滅されなかったら、ガンジス川の砂よりも多い断滅されるべき事象も、究極的に断滅されないからです。ガンジス川の砂よりも多い獲得すべき事象は究極的に獲得されず、明らかにすべき[事象]も明らかにされることがありません。

このようにして、無明の領域の内部の煩悩の蓄積から、すべての修行法の実践によって断ぜられる煩悩(一切修道断煩悩)と、潜在的な煩悩(住地)の上に生じ、現在に勢力ある煩悩(上煩悩)が生じます。同様に、心、心を一つの対象に止めること(止)、観察(観)、瞑想(禅)、精神の統一(正受)、巧みな手立て(方便)、智慧(智)、結果(果)、 獲得(得)、力、恐れをもたないこと(無畏)などにも上煩悩が生じます。これらはすべて顕在的な煩悩であり、ガンジス川の砂より多いのですが、如来の悟りの智慧によって断滅されます。

これらすべての煩悩は、無明の領域によるものです。すべての顕在的な煩悩は、無明の領域を原因として活動を始めます。世尊よ。

顕在的な煩悩と共に、心とその様々な作用は瞬間的に対応して生じます。世尊よ。心は無始の無明とは[同じようには]対応しません。

世尊よ。ガンジス川の砂よりも多い、断滅されるべきすべての事象は、如来の悟りの智慧によって断滅されますが、それらの事象は、無明の領域に支えられ、維持されています。たとえば、すべての種子は大地をよりどころとして、それを養分とし、発育しますが、もしその大地が破壊されれば、その種子もまた破壊されます。

同様に、如来の悟りの智慧によって断滅すべき、ガンジス川の砂よりも多いすべての事象は、無明の領域をよりどころとし、それを養分とし、発達するのです。もし無明の領域が断滅されれば、如来の悟りの智慧によって断滅されるべき、ガンジス川の砂よりも多い事象は断滅されるでしょう。もしすべての煩悩と付随的な煩悩が断滅されれば、ガンジス川の砂よりも多いすべての事象は、それらを遮られることなく洞察する如来によって、断滅されるでしょう。

一切を知る智慧はすべての過ちを離れ、法王、法主のすべての功徳を得、自在な力を得、すべての事象から自由な位に登ります。世尊・応供・正遍知は師子吼します。完全に生を尽くし、『聖なる実践は成し遂げられ』『なすべきことをなし終え、』そして『再び生を受けない』ということが、今に至るまで、師子吼を用いて、 その完全な意味で、説かれてきたのです。

世尊よ。再び生を受けない知識(不受後有智)には二種あります。第一は、如来の知識です。

この上ない力によって、四種の悪魔(煩悩魔・五陰魔・死魔・天魔)を征服し、すべての世俗的な世界に出現し、すべての生き物から尊崇されます。彼らははかりしれない法身、すべての知識の剣、およびすべての物事において遮られることのない自在さをそなえます。この位に至ると、さらに上位の行為や、得べき事柄は全くありません。

彼らは十の荘厳な[知識の]力(十力。 仏に特有の十種の力)を持ち、最高の、並ぶ者なき、勇敢な位に登るのです。一切を洞察し、遮られることのない知識によって、彼らは他に頼ることなく理解します。この再び生を受けない知識が、師子吼なのです。

世尊よ。第二は阿羅漢と縁覚の知識です。彼らは死と生に対する恐怖を乗り越えると、次第に解脱の幸福を感じ、『私は生と死に対する恐怖を克服したので、もはや死と生がもたらす苦を経験することはない』と考えます。

世尊よ。阿羅漢と縁覚は瞑想する際、再び生を受け入れず、最高の安息の場所である涅槃を観察するのです。世尊よ。

初めてその[涅槃の]境地を得た者は、法に無知ではなく、また他に依存してそれを得たわけでもありません。彼らはまた、[自身の努力によって]得た境地にはまだ残りがあり、当然のこととして、最高の、完全な悟りを得るだろうと知っています。なぜでしょうか。 声聞乗と縁覚乗は、大乗に含まれているからです。

大乗とは仏乗です。それゆえに、これら三乗はすなわち一乗なのです。一乗を得る者は、最高の完全な悟りを得ます。

最高の完全な悟りは、涅槃の境地です。涅槃の境地とは如来の法身です。究極の法身を得ることは、究極の一乗[に至ること]です。

如来は法身と異なりません。如来は法身と同義です。もし究極の法身を得れば、それは究極の一乗です。

究極[の一乗]とは、際限がなく、断絶しないということです。世尊よ。如来は時の際限を超えています。

如来・応供・正遍知は、永遠の未来にわたって存在し続けるのです。如来には際限はありません。その大いなる慈悲もまた際限がなく、平安と安楽を世俗的な世界にもたらします。

その際限のない大いなる慈悲は、際限のない平安と安楽を世俗的な世界にもたらします。このように説明すれば、如来を巧みに言い表したといえます。また、無尽蔵の法であり、永遠に存在し続ける法であり、全ての世俗的な世界のよりどころである、と説明すれば、如来を巧みに言い表したといえます。

それゆえに、まだ救済がなされていない世俗的な世界、よりどころのない世俗的な世界において、永遠の未来にわたって存在し、無尽蔵のよりどころ、 常住のよりどころとなるのが、如来・応供・正遍知なのです。法とは一乗道の教えです。教団は三乗の人々の集まりです。

これら二つのよりどころは、完全なよりどころではありません。それらは『部分的なよりどころ』といわれます。なぜでしょうか。

一乗道の法とは、究極的な法身を得ることを説くものであり、それ以上にさらに一乗の法を説くことはないのです。教団、すなわち三乗の人々の集いは、恐怖を抱いています。彼らは如来をよりどころとし、恐怖から脱出することを求め、修学して、最高の完全な悟りに向かいます。

それゆえに、これら二つのよりどころは、究極的なよりどころではなく、限定的なよりどころです。もし如来によって、力をもって抑えとどめられた者達がいたとすると、彼らは如来をよりどころとし、法が浸透してくるように感じ、 信頼と幸福感を抱き、そして法と教団をよりどころとすることになるでしょう。[しかし]これら二つは、実際はよりどころではありません。

彼らは如来をよりどころとしたからです。最高の真理をよりどころとするのは、如来をよりどころとすることなのです。これら二つのよりどころは、最高の真理としては、如来をよりどころとすることに他なりません。

なぜでしょうか。如来は他の二つのよりどころと異ならないからです。すなわち、如来は三つのよりどころです。

なぜでしょうか。一乗道を説くからです。四つの恐れなき状態(四無畏、正等覚無畏・漏永尽無畏・説障法無畏・説出道無畏)を完成させた如来は、師子吼によって教え導く御方です。

如来は、人々の資質や能力に応じて、巧みな手立てを用いて教化します。これが大乗であり、そこに三乗はありません。 三乗は一乗に入って行きます。一乗こそが最高の教えなのです。

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